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トレース疑惑と正義を掲げる人々

 ある美術作家に対して、トレース疑惑がネット上で持ち上がっている。端的にまとめると、個人ブログに掲載されている人形写真をトレースし、それらをオリジナルと偽ってグッズにして利益を上げていた。という疑惑だ。通告を受けたドールメーカーと作家が話し合いをしたが、やったやっていないの平行線で和解には至らなかったようだ。
 ぼくはこの作家を疑惑より以前から知っていた。グッズを買ったわけでもないし、思い入れは特にはないが、少女を思わせるような柔和な色使いで、まるで砂糖菓子のようだと感じたのを覚えている。
 こういった炎上騒動でいつも思うのは、糾弾する側の労を厭わない行動力だ。今回の作家に対しても、複数のSNSで検証と称したアカウントが作られ、疑惑を分かりやすくまとめた図や写真が掲載されている。専用の掲示板が立てられ、日々作家の動向について情報交換がなされ、今後の対策が話し合われている。
 疑惑の真偽はぼくには分からないが、もし本当だとしたら作家と名乗る資格はないし、ドールメーカー、撮影者、オリジナルと信じて買った方たちは皆被害者だ。しかし、ネット上で糾弾を重ねる人たちのほとんどは被害者ではない。作家が活動を続けようと、疑惑の影響で活動が困難になろうと、なんの利益も損失もない、完全に外側の人たちなのだ。
 どちらに肩入れする訳でもないが、ぼくはこのような事案を見るたびに少し不安になる。作家が否定を続ける限り、それは疑惑でしかないはずなのに、時に暴力的な意見が飛び、全く関係がないはずのファンに対してまで暴言を吐く者がいるからだ。
 トレースなどしていないのなら堂々としていればいい。しかし、堂々とすればするほど、糾弾する側はさらに過激化し、延々と対抗しようとする。正義という大義名分と圧倒的な数の利がある上に、例え疑惑が間違いだったとしても、自らが傷つく心配がないからだ。この終わりの見えない戦いは、まったくフェアではないのだ。
 個人が作品を公にすることも、商品化して利益を得ようとすることも、今では誰もができることだ。しかし、既存の作品は星の数ほどある。いつ、どこからパクりの疑惑をかけられるか分からない。今回の作家の作品は、一見するとパクられ元とされている写真とは似ているようには見えない。しかし、デジタルで編集することにより、顔のパーツなど細かな点がいくつも合致すると言われている。これほどの技術を目の当たりにすると、、逆に疑惑を生み出すことも容易なのではないかと恐ろしくなる。
 人の作品を盗むような行為は言語道断であるし、オリジナルと偽って発表するような神経はぼくには全く理解できない。しかし、時間や手間という労を厭わず、一人の人間を多数で糾弾し、陥れることに情熱的になれる人々が、ぼくは怖い。安易な憂さ晴らし感覚で便乗したにも関わらず、いつの間にかその気持ちを正義にすり替えてしまうような人々が、決して少なくないように感じるから。