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木漏れ日通り 001

 ぽつりと、指先が濡れるのを感じ空を見上げた。先ほどまで晴れていた空が、いつの間にか厚い雲に覆われていた。迫りくる雨音から逃げるように駆け出した。

 通りを抜け、薄暗い路地に入る。湿った生暖かい空気に包まれる。水たまりを避けながら進んでいくと、ふと小さな看板が目に留まった。錆でひどく汚れているが、かろうじてGalleryと書かれているのが分かった。看板から目を下すと、黒い扉が目に入る。西洋風の仰々しい文様が施されている。こんなところに画廊があったとは知らなかった。営業しているのかいないのか、外からでは分からない。恐る恐るノブに手を伸ばす。がちゃり、と音を立てて扉が開く。私は中に入った。

 店内は薄暗かった。天井に等間隔に設置された照明が、廊下に幽かなオレンジ色の光を落としている。歩くのが躊躇われるほどではないが、床や天井の隅にぼんやりと闇が溜まっている。

 ハンカチを取り出し頭に付いた水滴を拭いていると、奥のカウンターに人影が見えた。ぬるりと現れたそれは、黒い服を着ているせいか本当に影のようで、私は一瞬ぎょっとしたのだが態度には出さなかった。

「目録です。よろしければどうぞ」

 男は手招くように冊子を差し出した。やけに動きが緩慢だ。私は軽く頷いてから受け取った。表紙には「Isami Eizou 細密画展」と書かれていた。

「いさみ、えいぞう……」

「気鋭のアーティストです。昨年美大を卒業しまして、今回が初個展になります」

 間延びした声だった。目つきがどことなくぼんやりとしている。眠いのかもしれない。

 カウンターを離れ展示室の扉を開ける。中は廊下と同じように薄暗い。運動できるほど広くはないが、窮屈に感じるほどではない。私のほかに客の姿はなく、悠々と壁に掛けられた絵を見て回った。

 作品はどれもヨーロッパと思われる田舎の風景が描かれていた。古い絵本を思わせる独特のタッチで、大学を出たばかりの若い画家が描いたとは思えない。細密画と言うにふさわしく、紙を埋め尽くすように描かれた線の集合で陰影が見事に表現されている。完成までにどれほどの日数を要すのか、考えただけで気が遠くなる。

 ふと、ある絵の前で立ち止まった。収穫の様子を描いているらしい。木々に囲まれた畑の中心で、農夫が丸まるとしたカボチャのようなものを抱えている。近くには荷車があり、その上にも同じものが積まれている。ほかの作品に比べて、これといって目立つわけではない。しかし、どういうわけか目が離せなくなった私は、食い入るように見つめ続けた。

「タイトルは”収穫”。イサミが最も早期にかき上げた作品です」

 耳元で囁かれた気がして、私は飛び上がるように振り返った。展示室の中央の辺りに男が立っていた。先ほど、カウンターに現れた男だ。私は恥ずかしさもあって、ごまかすようにひとつ咳払いをした。男は意に介した様子もなく、相変わらずの眠たげな声で続ける。

「中世フランスの国境付近の農村を描いたものです。土の質感や、においが漂ってくるように感じませんか」

「……ええ。なんだか、とても引き込まれます」

 私はあいまいに頷いた。足元をゆらゆらと波が通り過ぎるような感覚がした。

「農夫が両手に抱えているもの、あなたには何に見えますか?」

「……かぼちゃ、それか……オオウリかしら」

 ろれつが回らず、自分の声がひどく幼く聞こえる。

「実はこれは、人の頭なんです」

 男の言葉が何度もこだまし、それと共に頭がぐらぐらと揺さぶられるような気がした。視界の端の方が黒い光に覆われていき、やがて立っていられなくなった私は体勢を崩した。

「大丈夫ですか?」

 私はいつの間にか椅子に座っていた。倒れそうになったところで男が受け止めたらしい。

「すみません、ちょっとめまいが……」

 私は思わず口元に手を当てた。視界が揺れるような感覚はもとに戻っていたが、今度はひどい眠気に体中が包まれていた。

「体調が優れないようです。少し休んでいきましょう」

 男はそう言って立ち去ると、今度は毛布を持って現れた。肩に毛布がかけられると、その柔らかな肌触りに思わず頬ずりしたくなった。しかし、私は眠気に襲われる体を鞭打つように口を開く。なんせここは展示室のど真ん中。眠っている場合ではない。

「……すみません、ご迷惑を……。でも、大丈夫です。少し、眠くなってしまっただけなので……」

「ならば、少々眠っていけばいいのです」

「……でも、ここじゃほかのお客さんが……」

「心配はいりません。今日はもう、お客さまは来ませんので」

「それは……どういう……」

「今日のお客さまはあなた一人だったのです」

 男はそう言って微笑んだ。その笑顔に私は深く安堵を覚え、眠気に任せて体の力を抜いた。

「さぁ、何も気にせず、しばし眠りましょう」

 私は目を閉じた。男の言葉が頭の中をこだまする。

 底の見えない闇の中に、私はどこまでも沈んでいく。